昭和43年10月22日夜のご理解
平川直子ノート・松永享四郎
人間の幸せと云うものは、自分で幸せになろう、自分で幸せを掴もうと云うても、掴める事じゃない、自分で金持ちになろうとか、いろんな、例えば、技術を身に付け様と云う事なら、精進やら、努力やらで、出来るのですけれども、幸せと云う、所謂、幸福と云うものは、そんな訳にはいかん、自分で幸福になろうと思っても駄目、何故って、幸福と云うものは、絶対神様が許されるものだから。
ですから、おかげをこの与えて下さる、与えられ同時に、許されなければ駄目、お金やら、物やらには、いわば不自由しない、所謂、与えられてはおるけれども、ね、心の中に、幸せを許しておられない、ただ、心の中に、有り難い勿体無いと云う様な心が許されるのは、信心より以外にはないのである、ね。
ですから、と云うて、ほんなら又、もう私にはもう、お金も無い、物も無いけれども、信心してるから、有り難い、というならば、有難いと云う物を許されておるとしましょうか、それだけでも、おかしい、それは、本まもんじゃない、もし、心に有り難い、所謂幸福を許されておるならば、その心におかげが伴わなければ、ウソ。
不自由で無い様な物が、伴わなければならない両方が、相求めなければいけない、結局この与えられ、与えられて、同時に許されなければならないと云う事が云える。
そこで、与えられる為にも、信心しなければならない、同時に許される為に、尚一段の信心、がなされなければならんと云う事が、判るね。 どうぞ。